Band1.591   

 次に記載するものはS. N. Jaschtschinskiの浅掌動脈弓および深掌動脈弓に関する研究の一部である.比較解剖学的にみると,尺骨動脈は多くの哺乳動物(有袋類,貧歯類,有蹄類,翼手類,食肉類など)において欠けているか,あるいは非常に小さいもので,それに反して橈骨動脈は多くの哺乳動物において広い範囲にみられる.もっともその発達の程度は低いものである(Zuckerkandl).尺骨動脈はサル類では割合よく発達しているがそれが橈骨動脈よりいっそう大きくなるのはやっと霊長類からである.それゆえ,人の尺骨動脈が橈骨動脈と同じかあるいはそれより小さい口径である場合は,この変異を先祖返りの理論で説明したくなるのである.尺骨動脈が手掌で尺骨動脈弓Arcus ulnarisを作り,橈骨掌側枝Ramus radiopalmarisを欠いている場合には尺骨動脈はより大きい口径を持つている.もし橈骨動脈が1本の橈骨掌側枝を出していると尺骨動脈の口径は橈骨動脈と同じか,またはそれよりも小さい.橈骨動脈が強大であればあるほど尺骨動脈は弱くなっている.純粋の尺骨動脈弓が人類型anthropomorpher Typusに近いものである.サルでは橈骨尺骨動脈弓Arcus radioulnarisが正常の形であって入間の場合にはとれは尺骨動脈弓よりまれであり(27%).そのため橈骨・尺骨動脈弓は先祖返りの性質をもつといえる.橈骨動脈とのつながりがなくて,しかも橈骨尺骨動脈弓に相当した形を示すものもおそらく橈骨尺骨動脈弓そのものと同じような系統発生学的の意味をもっている.それに対して弓状部を欠いている尺骨動脈弓に相当する変異は動物界ではどこにも見いだせない.正中尺骨動脈弓Arcus medianoulnarisと橈骨正中尺骨動脈弓Arcus radiomedianoulnaris,およびそれらで弓状部を欠いている諸例では,この血管の分枝様式に先祖返りの性格をあたえているものは人体にとって異常の存在といえる正中動脈なのである.(Anat. Hefte, 22. Bd.,1896)

 Adachiによると日本人では手掌の浅層の動脈はヨーロッパ人にくらべて発達がよくない.そして浅掌動脈弓もよりしばしば開放している.日本人では掌側の指動脈が深掌動脈弓かあるいは背側中手動脈に由来していることが多い.第3総指動脈ではこの関係が逆になっている.これらの問題についてはさらに次の文献を参照されたい.E. Schwalbe: Morph. Jahrbuch, 23. Bd.,1895 und Morph. Arb.,8. Bd.,1898-J. Tandler(u. E. Zuckerkandl):Anat. Hefte, 22. Bd.,1896.

c)胸大動脈Aorta thoracica(図636)

胸大動脈は脊柱の前面にそって下方に向う.

 胸大動脈は脊柱の弯曲に沿っているから軽く前方に凸の胸部弯曲と,軽く後方に凸の腰部弯曲とをもっている.なおこの動脈はその初まりで椎体の左側にあるが,次第に椎体の中央に向いその腹腔部はふたたび左の方に曲がっている.したがって軽く右に向かって突出した弓を画いている.それゆえ胸大動脈には矢状面と前額面における弯曲が区別される(脊柱の弯曲の項参照,267頁).

 胸大動脈は胸腔ではあまり太くない数多くの枝を出していて,そのためわずかながら下方にすすむとともに直径が小さくなる.それに反して腹腔では内臓と下肢とに向かって強大な枝を送るので,その太さは著しく減少し,そのため遂に尾部の大動脈Aorta caudalisは1本のごく小さな血管にすぎなくなる.

 頚部と頭部の諸動脈におけるよりもっと明瞭に,下行大動脈の諸枝は2群に大別される.すなわち a)壁側枝Rami parietales,これは分節的配列をなして体壁と脊髄を養う.b) 臓側枝Rami viscerales,これは体壁でとり囲まれた内臓に向かっており,分節的配列はごくわずかに認められるだけである.臓側枝の関係はそれが分布する内臓の様子によって大きい相違を示すが,壁側枝の分枝は簡単な法則に従っており,このことについてはすでに501頁で述べたのである.

 局所解剖:下行大動脈の胸部は第4胸椎の左側で始まって第12胸椎まで達し,そこで横隔膜の大動脈裂孔にはいる.胸大動脈は左右の胸膜腔のあいだで,縦隔の後部において心膜嚢の後にある.左側は胸膜の縦隔部に接し,右には右縦胸静脈,胸管,および食道がある.しかし食道は胸郭の上部においてだけ大動脈の右側にあり,それより下方では大動脈の前がわになり,横隔膜を通過するさいにはしばしば大動脈の少しく左側にある.左縦胸静脈は胸大動脈の左側にあり,ついでその後を右にすすんで右縦胸静脈に合する.

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最終更新日13/02/03

 

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