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 リンパ性器官の非常に細い静脈では特に丈の高い,ほとんど円柱形の内皮細胞の存在が確認されている(図612, K. W. Zimmermann, W. Schulze, Hett).

c)毛細管Vasa capillaria, Haargefäße

 歴史:長いあいだ, 古代の人たちは心臓が静脈によって血液を諸器官に送り,また動脈によって空気(Pneuma)を諸器官に送っているのであろうと考えていた.静・脈を通って流れていく血液は心臓の搏動ごとに同じ道を戻ってくるのだろうと思つていたのである.

 著しい進歩はアレキサンドリアのHerophilus(西歴紀元前300年)が本当の事実とだいたい一致した見方をしたときになされた.それによると動脈の中には血液と空気の混合物があるというのであった.

 彼と同時代の人であるErasistratusは動脈と静脈が末端で結びついていることを予言し,Galen(紀元後131~201)は動脈が血液を含んでいることを確認し,また動脈血と空気の混合という説をつよく主張した.彼は静脈血が心臓の方向に流れるということを言いだした最初の人であるかどうかははっきりしていない.心臓の右半の意義についての彼の説は特別であって,すなわち右心の血液のうち役にたつものは心臓の隔壁を通って左心に達し,無用のものは肺動脈をへて肺に至り,そこで発散するといい,また空気は肺から肺静脈を通って心臓に行き,ここで血液と混ずるというのである.この説は中世紀の全体を通じて信じられていた.やっと16世紀になってVesalとその同時代の人たちが心臓壁は通過不能であることを認めた.さらに静脈弁がもう一度見出だされて(Cannani 1546, Fabricius ab Aquapendente 1574),静脈血の求心性の通路が確定された後に,Mich. Serveto(1509~1553)など少数の人たちは右心から肺を通り左心にいたる」血液の流れを不完全ながら唱えはじめた.当時の人々は動脈の搏動を自動的なものとみなし,動脈は最も細かく枝分れしたところで,老廃物を排出し空気をとり入れるのであろうと考えた.

 その後でWilliam Harvey(1578~1658)が短い古典的文献Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibus, Francoforti 1628によって本当の事実を証明した.しかし動脈と静脈の末端の毛細管系によるつながりが解剖学的に立証されたのは1660年以後のことで,それは血管注入法と顕微鏡の利用によって初めてなしとげられた(De Marchettis, Blankaard, Ruysch).

 生きている動物で毛細管における血液の循環を見ることは,まずカエルの肺と腸間膜でMalpighi(1661)が顕微鏡で観察し,温血動物についてはCowper(1697)が初めて見た.

 すでに述べたとおり,毛細管Haargefäße, Haarröhrchen, Kapillargefäße, Kapillarenはリンパ毛細管,毛細胆管,唾液毛細管などと区別するために毛細血管Blutkapiilarenと名づけられ,動脈と静脈とを直接につないでいるはなはだ細い血管である.その内腔はたいてい非常に狭いのでただ1列の血球しか通過できないほどである.毛細管はほとんどからだ全体にわたって広がっている.しかし上皮(大多数の).上皮性の組織(毛,爪).歯の硬組織, 角膜(辺縁係蹄網を除く).感覚器と神経系の或る部分および軟骨質(ただし全部ではない)は血管を欠いている.

 すべて一般に脈管というものがそうであるように毛細管の走行は常に器官の結合組織と結びついている.というのは毛細管は体の結合組織の分かれであり,いつまでも結合組織とのつながりを保づているものである.しかし毛細管がもはや結合組織によって包塞れていないで,結合組織の最も外方へ突出した部分をなしていることがある.体の基本的な構造物(細胞や線維など)の内部には毛細管が入りこまない.神経細胞,神経線維,脂肪細胞,筋線維,骨層板,腺の小管や小胞の内に毛細管は入っていない.もっともその周囲にははなはだ多くの毛細管がまつわりついていることがある.

[図612] 丈の高い内皮細胞 19才の男の舌扁桃において毛細管の直後にある静脈のもの.(K. W. Zimmermann, Z. Anat. u. Entw., 68. Bd.1923. )

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最終更新日13/02/03

 

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