イワン・ペトロヴィッチ・パブロフ Ivan Petrovich Pavlov 1849~1936 本文へジャンプ

科学的精神医学への貢献

イワン・ペトロヴィッチ・パブロフ Ivan Petrovich Pavlov 1849~1936

 パブロフが精神科診療所でおこなった研究からひきだしたもっとも大きな一般的理論は、そこで観察されたいくつかの障害を、脳の種々の部分、種々の機能体系に局在化することによって体系化しようとする試みであった。ここですでに、人間と動物では高次神経過程と生活条件にひじょうに大きな質的差異があることを反映して、人間と動物の神経症のあいだには大きな質的差異があることが見られるであろう。

 パブロフは人間がもつ三つの高次神経系――一つの無条件反射系二つの条件反射系を区別する。動物は高次神経を二つしか、つまり一つの無条件反射系と一つの条件反射系しか、もたない。このことはすでに質的な違いを明示しているが、それは人間の病的障害の性質にもあらわれるであろう。三つの神経系とは、第一に、皮質下領野に位置する無条件反射あるいは「本能」の体系、第二に、大脳皮質に位置する第一信号系あるいは感覚信号系、第三に、これもまた皮質に位置する第二信号系あるいは言語信号系である。このように、人間は皮質下系を一つと皮質系を二つもっているが、動物は一つずつしかもっていない。人間が三つの体系をもち、それらの相互関係も障害をうけるようになりうるという事実は、人間の病態がはるかに複雑であることを示している。以下は、三つの体系の、健康な働きと病的な働きの両方に関するパブロフの見解を要約したものである。

 三つの体系はすべて、人間と環境とのあいだに力動的均衡をうちたて、人間の行動を外的諸条件に適応させ、あるいはとりわけ人間に特徴的なこととして、人間の欲求どおりに環境を適応させようとするものである。 皮質下に位置する無条件反射系は、環境のヨリ永久的な特徴への適応をあらわし、それは人間が進化するなかで遺伝となってきたものである。これらの例は、「純粋に」無条件的な形では、まず生まれたばかりの赤んぼうが、唇にさわるものを何でも吸い、手のひらにふれるものを何でも握り、口にははいるものを何でも呑み込むことに、そして泣いたりのどを鳴らしたりのような一定の苦痛と快楽の反応に見られる。無条件反射が純粋な状態で見られるのは、だいたい生まれた直後だけである。無条件反射は、生活を送るなかで急速に条件反射にとりこまれ、あるいは織りあわされてゆくからである。このことは、皮質下の無条件的機能に病的な撹乱が生ずると、しばしば、皮質における条件反射活動、とくに個人の敏感な情動的、想像的活動を扱う感覚信号系に、第一に障害が起こる事実を説明する。たとえば、ある無条件生殖反射の撹乱がまず情動障害をひき起こし、ついで無条件的性活動の障害となって現れる。無条件反射系の障害は、あるばあいには主として皮質下領域にあらわれ、別の場合には主として皮質にあらわれる。後者は心因性障害として、前者は身体因性障害として、分類されるであろう。 そのつぎのヨリ高次の体系は、実在からの信号を処理する第一の系あるいは感覚系である。それは学習過程あるいは認知つまり外界から知識を獲得する過程の第一段階である。それは社会的実践のなかで獲得された、具体的で直接的な感覚的経験による学習である。それは認知の<知覚的段階>である。第一信号系は感覚的、想像的、情動的思考の乗りものであり、環境世界の影響を直接、言語を媒介せずに受けて働いている。その機能は外的諸事物についてその作用と特性を反映する感覚像を受容し、それら感覚像相互間の関連を最初に明らかにすることにある。それはまた、人間有機体の内的環境からの刺激、たとえば労働過程に入りこんだ筋肉や内臓諸器官からの、あるいは諸器官の体系全体からの、刺激を受けとる。第一信号系の病的障害は、環境が強力すぎるか葛藤しあっているとき、そこにまきこまれた皮質細胞を過度に緊張させることによってひき起こされるであろう。感覚信号系の病的障害はまた、それより高次あるいは低次の体系、つまり言語信号系と無条件反射系のいずれの障害の結果としても起こりうる。後者のばあいには、障害は、病的状態にあるいずれかの内臓器官が異常ないし過度に強い刺激を第一信号系の各皮質細胞に送って、これを過度に緊張させることから生ずるであろう。 人間が環境的条件に適応する過程での最高の体系は、実在からの信号を処理する第二の系あるいは言語系である。この体系の機能は、有声ないし無声の言語を使用して、抽象化、一般化をおこなうことである。それは認知の<理性的段階>であり、そこでは、相対的に孤立した第一信号系の感覚像と、評価されたその意味およびそこからひきだされた結論とが、相互に結びつけられる。これは、パブロフが「人間のみにあるヨリ高次の心性」といったものである。第二信号系はまた、他人の経験や前の諸世代の経験から学ぶことを可能にする。それは科学を可能にし、こうして具体的実践にたいする真に有効な導きとなる。こうして、健康な覚醒状態にあっては、それは第一信号系と無条件反射系の両方の活動を調整し規整する。過度に強力であるか葛藤しあう言語刺激が、他人から、あるいは無声言語の形をとって自分自身の思想から与えられると、第二信号系の病的障害が生ずるが、この後者の、自分自身の思想から刺激が与えられるばあいでも、そのいちばんはじめの刺激は究極的にはつねに外界からのものであろう。病的障害は、現存の言語刺激とわれわれの理想や願望とがあまりにも相容れないときに生ずるであろう。あるいはまた、病的障害は、低次の二つの体系の影響の結果、起こることもある。さらに複雑なばあいを考えると、第二信号系の障害はヨリ低次の二体系、さらにはからだ全体の障害をひき起こすであろう。愛する人の死を知らせることばを聞くと、ある条件のもとでは、三つの体系のすべてと、内的な身体的、植物的環境とに病的障害を生みだすであろう。 パブロフの研究室で見いだされたことは、三つの体系の一つが、最初、他とは無関係に障害をひき起こすと、それは三つの体系全体間の相互関係に影響を与え、程度の差はあれ、全体系に広がるのがふつうの傾向であるということであった。そうなっていくいきかたの一つは、高次の系が過度の緊張を受けて保護制止の状態にはいると、この系はそのために、低次の系にたいして正常な調整的統制を及ぼすことをやめ、その結果、いまや高次系の影響を受けずに働くようになった低次系は、高次系の抑制的影響なしに自由に作用することができるようになる。こうして、高次系の障害は低次系の障害をひき起こす。一例をあげると、ある型の精神分裂症はひじょうに陽気で空想的な思考が見られるが、そこでは第二信号系は静止状態にあって、第一信号系にたいするいつもの影響は及んでいないのである。

 精神科診療所で見られる、阻害された行動、ゆがめられた情動や思考といった精神疾患の<症状>は、高次神経活動の三つの体系の全面的あるいは局部的障害のあらわれだ、とパブロフは考えた。障害の個々の形態は、他の諸要因とならんで患者の神経系の型にも依存していることが見いだされた。こうしてもう一つの重要な帰結が臨床的研究から出てくるが、それは人間の型の問題に関するものである。

人間の神経系の型

 パブロフは、人間の型の問題は非常に複雑だから、研究にあたっては極度の注意が必要であると考えていた。この複雑さは、神経過程自体の役割がはるかに重大であることからくるだけでなく、人間の環境が社会的な性格をもつことからヨリ多くきている。こうして、動物のなかにその作用が発見された神経系の三つの特性――強さ、平衡、易動性――は、人間の型の決定にも適用されるが、それは社会的環境のなかで形成されることによってひじょうに複雑になっている。このことは、一つの特性、たとえば強さ、すなわち興奮過程と制止過程の強さをとりあげるだけで容易にわかる。人間の特定の神経系の弱さあるいは強度は、パーソナリティのもつ社会的価置によって変化する。人びとは、忍耐、意志の強さ、ねばり強さ、大きな不平等にたいする戦い、困難の克服、階級への忠誠といった社会的特性を発達させるように教えられ、それらは程度の差はあれ、皮質細胞の弱さを補うことができる。神経系が強いことは人間にとって有用な資質の一つである。しかし、社会的価値、性格、パーソナリティ特性、自分に期待されるものについての意識が決定的な役割をはたしている。われわれがみな社会でぶつかっている不都合な外的条件やきびしい生活状況に対抗するさいに、緊張にたいしいて神経系がもちこたえるか機能を停止するかを決定するのは、皮質細胞が強いか弱いかだけではないであろう。生活が提起する諸問題に正しい解決を与え、複雑な状況から抜け出す適切な道を見いだす能力がさらにいっそう重要である。原則を知り、それを具体的状況に適用する能力がここでは決定的である。人間の神経系の強さは、したがって、人が社会的実践をとおして生活のなかで獲得した知識や性格にくらべれば、二次的である。 神経系の強さについていえることは、平衡、易動性という他の特性についてもあてはまる。興奮と制止の神経過程が強さの点で平衡がとれているか、新しい状況に即して神経系が急速に変化しうるかにかかわりなく、決定的なものは、その人にすでに形成されている性格、知識、実践能力である。平衡や易動性という特性以上に、こうしたことが、人生のもっともひどい打撃に直面したとき、神経系が過度の緊張に陥るかどうかを決定するであろう。 これらの発見から、パブロフは、人間の神経の型を決定する二つの新しい基準を導入した。人間の型の問題は、強さ、平衡、易動性に加えて、いっぽうでは皮質と皮質下の活動のあいだの、他方では第一信号系と第二信号系のあいだの、相互関係の特殊性という面からも研究されなければならない。要するに、人間の型を決定するためには、ある個人が受けたすべての影響が考慮されなければならないのである。

 あれこれの信号系の優越あるいは均衡を基礎にして、パブロフは、人間の神経系をひじょうに一般的な三つの型に分類する。<生活経験のなかで>、ある人びとは、いっぽうの極として第二信号系よりも第一信号系をヨリよく発達させ、たほうの極として第一信号系よりも第二信号系をヨリよく発達させる。あるいは、ほとんど大部分のばあいがそうであるが、言語系に調整者の役割をはたさせつつ、二つの体系の、均衡のとれた相互関係を発達させている。人間の型にかんするこの理論を理解するためには、われわれはさらに、両信号系の性質と両者の関係とを研究しなければならない。問題の中心は情動と思考の性質と役割にある。 周知のように、動物は実在からの信号を処理する第一の系にかぎられている。動物は、感覚器官に作用し、そこから脳の高次部分に作用する感覚刺激の形でのみ、環境から信号系を受けとる。動物の情動すなわち特定の刺激が動物の安寧に及ぼす は、二つのしかたで明らかにされる。一つは走ったり、とびついたり、かみついたりのような 現象によって、もう一つはほえたり、うなったり、鼻をならしたり、よだれを流したり、毛をさかだてたりのような表現的現象によって。動物の安寧へ及ぼす刺激の影響は、生活のなかでまえもって開かれていた、条件信号と無条件反射のあいだの神経経路をとおしておこなわれる。このことは、感覚信号が呼びおこす無条件反射が何であれ――たとえば防御、食餌、生殖に関するもの、その信号のもつ情動的色調が、条件結合にもとづいて、無条件反応に付与されることを意味する。こうして動物の情動は、皮質に位置する感覚系と皮質下に主として位置する無条件反射系の関係の、重要な一側面である。動物の情動は、活動にあらわれるものも身体的変化にあらわれるものも含めて、ともに皮質過程と皮質下過程の、いいかえれば第一信号系と生得的反射の相互関係の本質的特徴を含むということができた。<動物の活動は、したがってこの意味で、つねに情動的活動である。>動物は刺激に反応するが、それはその刺激がどんな直接的影響を動物に約束するかにかかっているのであって、動物は以前に形成された条件反射によってだけ、このように反応するのである。たとえば、犬は、食事の準備をするときにいつも出る音に反応して、興奮しながらあちこち走り回り、高い声でほえ、尾をふり、よだれを流すであろう。「動物の情動」は、皮質過程と皮質下過程の条件結合によって決定された動物の反応である。 しかし、動物に「情動」ということばを使っても、うるところはほとんどない。これは真である。というのは、情動が対置される現象がほかにないからである。動物の情動は、外的(あるいは内的)刺激が動物のその時の生命活動にどんな直接的影響を及ぼすかにかかわっている。動物はこうした影響を受けてはじめて反応するので、それを「情動的」活動と呼ぶ意味がない。<活動>だけで十分である。この問題をここでとりあげる理由は、ひとえに、人間の情動の問題を研究する助けとせんがためである。人間にとっては、情動は意味をもっている。というのは、それには対置される現象すなわち観念あるいは言語による抽象作用があるからである。情動と観念とは、意識のもつ異なった側面であり、人間の精神に客観的実在を反映させる異なった側面である。<観念>の第一の役割は、もろもろの事物や過程を外的世界にあるがままに反映することである。観念が言語信号でなければならないことは明らかであるが、それは、人間の主観的感情にかかわりなく、みずからがその反映である客観的事物に照応する。たほう、<情動>の第一の役割は、観念のうちに反映された事物が個人にたいしてどんな意味をもつかを評価することである。したがって、すべての観念は、多かれ少なかれ情動的色調をもっている。観念なしに情動はなく、逆に情動のない観念もない。人間を動かして行為にひき入れるのは、反映の情動的側面である。人がヨリ正確な理解をもつのは観念によってであり、ヨリ適切な反応をするのは情動によってであろう。たとえば、立ちのき通知を受けた借地人の情動的反応が適切であるかどうかは、第一に、立ちのきに反対する戦いの可能性にかんして、たとえば彼に有利な法律的手段や借地人会議の力を、彼がどの程度観念的に理解しているかにかかっているであろう。こうしたことを彼が知らなければ知らないほど、彼の情動的反応は不適切で、びくびくすることになろう。逆に彼が多くのことを知っていればいるほど、彼の反応はいっそう適切で、おちついているであろう。このように、人間にあっては、観念と情動は、実在を意識内に反映する不可欠、不可分の二側面なのである。  情動と観念およびそれらの相互関係の基礎にある高次神経活動は、三つの体系を含んでいる。それは、皮質にある感覚系と言語系、皮質下にある無条件反射系である。観念はつねに言語による抽象作用であるので、第二信号系あるいは言語信号系が観念の基礎をなす神経活動となる。たほう、情動は、主として第一信号系あるいは感覚信号系と皮質下の無条件反射系の相互作用である。これはわれわれを、人間の神経系の型の問題につれもどす。 たいていの人にあっては、観念と情動の基礎にある神経諸過程は密接に関係しあっている。観念あるいは言語による抽象作用は、社会的実践のなかで、実在からえられた直接的感覚的信号をもとにして生みだされ、実践活動の感覚的経験のなかでふたたび点検される。この中間型では、情動は、第一信号系と無条件反射系の働きであるが、第二信号系あるいは言語信号系の統制的調整を受けている。つまり情動は、多少とも真実な観念にもとづいて調整されているのである。こうして、大多数の人がはいる中間型にあっては、情動的活動と観念的活動の均衡がとれており、この均衡は、それらの活動の根底にある高次神経系の均衡をあらわしている。そしてこの均衡は、ともに、経験と社会的実践を通じて順次形成されてきたのである。神経活動の本質的三特性から見れば、中間型は、程度の差はあれ、強くて平衡がとれ昜動的であるであろう。つねに忘れてはならないことは、型は、生活のなかで、障害にあいそれをのりこえるなかで、ひどい打撃に耐えるなかで、ひきつづく闘争のなかで、形成されるということである。こうして型は高度の柔軟性をもち、実際の行動が変化するにつれて型も変化しうるのである。 中間型のほかに、いっぽうの極に、抽象的観念が具体的心像や情動、さらに実践から部分的に切りはなされている型がある。これが「実在から切りはなされた知識人」であり、彼は言語による抽象作用の王国に住み、それを実在と見誤りがちである。強調されねばならないことは、これは病態ではなく、頭脳の労働と手の労働とがするどく分化する傾向にある社会ではむしろふつうに見られる不均衡であることである。根底にある高次神経活動の面から見れば、この「知的」な型は、第一信号系にたいする第二信号系の優位および両者の一定の分離をあらわしている。この型にあっては、抽象的言語信号は、通例、実践における具体的感覚的経験から直接生まれるものものでもなければ、またその真偽を決定するためにたえず感覚的実践にもどされて、点検されるのでもない。この極は、純化された抽象の王国に生活する、修道僧的、学究的な型である。 均衡のとれた中間のグループをこえてもういっぽうの極に、想像や情動が観念あるいは言語による抽象作用の調整的影響から部分的に切りはなされている型がある。「ボヘミアン」がこれであり、彼は感覚像や情動的反応の世界に住み、この世界を実在と見誤りがちである。この極もまた病態ではなく、「純知識人」のばあいと同様、むしろふつうの不均衡であり、それは情動を観念から切りはなす社会、「知識人」は感ずるのでなく考えなければならないというのと同じように、「芸術家」は考えるのではなく感じなければならないと主張する社会、によって生みだされている。その基礎にある高次神経活動の面から見ると、情動的な型は、第一信号系が、そしておそらく皮質下過程も、第二信号系より優越していることを示し、多かれ少なかれ両者の分離をともなっている。この型にあっては、具体的感覚信号は、観念あるいは抽象的言語信号の十分な調整を受けていない。その結果、科学的知識でなくむしろ直接的感覚的な経験や情動的反応が、思考や活動の基礎となりがちである。情動的な型は、合理的思考の手をあまり借りずに、なまのままの感情によって直接的感覚刺激に反応する傾向がある。こうして、彼はしばしば気まぐれであり、その気分は直接的感覚像の動揺につれて、得意から失意へつぎつぎと変わってゆく。

 パブロフはこれら両極の型を、それぞれ「思想家」型と「芸術家」型と呼んだ。パブロフは科学者であるとともに教師であったので、注意深い限定を必要としながらも自分のいいたいことを劇的に表現するようなことばを、ときどき使った。人間の高次神経活動の型に「思想家」、「芸術家」ということばをあてたものも、このようなばあいである。彼は、極端な型が二つの信号系のどちらかの優越に基礎をおいていることをはっきり示したいと思った。そして芸術家は純粋に情動的であり、思想家は純粋に知的であると一般に考えられているので、彼は自分の意図をはっきり示すためにこれらのことばを用いた。すでに指摘したように、資本主義社会には、芸術家や思想家について誤った考えを生みだすとともに、現実にその型にはまった個々の芸術家や思想家を折りにふれて生みだす強力な力が働いているのである。しかし、すべての芸術家や思想家が極端な型をあらわすものではけっしてないことは明らかである。真の芸術家や科学者は、多くは均衡のとれた高次神経活動をもつ多数者の中間的グループに属し、そこでは観念と情動、第二信号系と第一信号系が、密接な相互関係をたもちつつ、なお人間だけに特有の言語信号系というもっとも高次の体系の調整を受けているのである。たほうで、職業が芸術家や思想家であろうとなかろうと、生活経験の結果として、だれでもどちらかの極、すなわち神経系の不均衡な形をあらわすものになりうるのである。

パブロフとフロイト(1996)より引用

 

 

 

川村光毅、船戸和弥

最終更新日: 2012年4月26日